昭和48年5月16日 朝の御理解
                                     中村良一
御神訓
一 信心する人は何事にも真心になれよ。



何事にも真心というと、真心(まごころ)と。真心(まごころ)になるという事。または、あの、信心、いわゆる信心者の信心ですね。いわゆる、信心。この二つのところ、二つの意味があると思います。真心(まごころ)と書いて、そして真心と読ませてもらう。ね。だから、勿論、真心(まごころ)にもならなければならないが、ね。信心にもならなければならないという事です。信心はなくても、非常に、真心(まごころ)の厚い人がありますよね。親切であったり、真心(まごころ)の篭もった人がありますよ。だから、それだけ、それではいけないというわけです。ね。例えば、私、今日、御神前に、あの、で、頂く事が、綺麗な白足袋をはいた方が、綺麗なぞうりをはいて、いうならば、ここで良か、あの、足元を大事にしろとこういうわけです。自分の足元を大事にしなければいけない。ところが、私が御神願に、そういう、綺麗な、その足元を見せてくださって、その人の姿のところも、こう頂いた途端に、あの、身体が先のようにして、倒れなさるところを頂いたんです。ね。ですから、あのこれは、いくら、ほんなら、真心(まごころ)が厚いとか、親切が強いとかと言うてもです。信心を抜きにしたんでは、あの、いわゆる、足元は乱れておらんでも、五体のほうから乱れてくるというような事ではいけないです。そんな意味だと思ったんです。そして、今日、ま、信心する人は、何事にも真心になれよという御神訓を頂いてみて、しかもその真心というのが、真心(まごころ)と書いてある。だからこう、真心(まごころ)と信心というのが、一緒でなからなければいけないという事が分かります。ですから、信心がない間はね、これは親切だ、これは真心(まごころ)だと思っておることが、だから、そうではない事もあるわけです。ね。これは、本当のことを言うと、その次の御神訓にね、んー、「真の道をゆく人は肉眼をおいて心眼を開けよ」と、こう仰るから、心の目を開かなければ、どれが本当やら分からんのです。心の目を開かないと。ね。どういう事が、真心(まごころ)なのかすら、その、分からないと言うても良いくらいです。ね。ですから、私共が、先ず、真心にならなければならない。ね。信心させて頂いておるものは、言うなら、信心者らしい生き方、あり方にならなければならないという事です、先ず。ね。信心をさせていただくものは、いわゆる、信心者らしい、ね。同時に、あの、真心(まごころ)になること、で、なからなければならんのですよね。今日はだから、ね。信心はしておるけれども、真心(まごころ)ではない。真心(まごころ)ではあっても、信心がない。それでは、次の、いわゆる、心眼が開けるというような事になってきませんね。心の目が開けてくるというような事にはなってまいりません。どうでも、心の目が開けること、為には、真心と真心(まごころ)が平衡していかなければならない。本当に、信心は熱心でも、あの、非常に、何というでしょうかね。信心の無い者でも、おー、言うたり、したりしないような事を、平気で言うたり、したりする人がありますもんね、信心をしておっても。ね。信心が無くて、真心(まごころ)が厚いと言うても、ほんなら、私が、今朝から御神願に頂くように、足元は見事に、ね。いうなら、あの、信心は無くても、何ていうでしょうかね、実に、人物も立派だし、生き方も、なかなか正直で、えー、良い生き方をしておる人がありますよね。けども、これは、ほんなら、本当のことにはならない。本当のおかげにはなっていかない。ね。いうならば、あの、修養の積んだ人じゃない、修養がつんでおるというだけではいけないという事になります。やはり、神様の、ご守護、お加護をね、本当に受け止めさせて頂くということが真心なのです。ね。真心とは、まごころと書いてある。その真心(まごころ)と、その真心とが、ひとつに、私は表現してあるんだとこう思うんですよ。ね。そこで、一つ、信心が分かり、信心を頂かなければならないという事になります。良いですか。信心が分かるという事はです。信心が分からなかったことは、自分の生き方は間違いないとこう思うておる。立派な生き方をしておるとこう思うておっても、いざ、信心を頂いてみる。いわゆる、御教を頂いてみるとです。なるほど、自分の生き方やら、思い方の間違いであることに、大きく気がつくでしょう。ね。だから、先ずは、信心を分からせてもらわなければいけません。御教えを頂く事によって、信心が分かるのです。ほんなら、信心が分かっただけではいけんのです。わかったら、その信心を頂かなければいけんのです。ね。頂く。頂く事によって、血に肉になるのです。ね。こういう食べ物があると知っただけではいけません。その、それを知ったら、その食べ物を頂かなければ、食べなければならん。その食べ物が、血にも肉にもなって行き、おかげの原動力ともなるわけなんです。ね。真心を頂く。あ、真心を分かる。そして、真心を頂くと。この二つがです。私は今日は、真心と教えておられるんだと思うのです。ね。真心とはまごころと書いて、横に、しんじんと読ませ、カタカナが打ってあります。ね。そういう生き方にならんとです、次の肉眼をおいて心眼を開けという、心眼が開けてこないのです。心の目が。
皆さん、あの、えー、山椒大夫という物語がありますね。えー、あの、あれは、厨子王と安寿でしたかね。えー、お父さんは偉い人でした。けれども、いろんな、讒言(ざんげん)にあって、九州に流される。で、その、お父さんの後を、お母さんと、それから、まだ子供であるところの安寿と厨子王、それに、召使と四人で旅を致します。そしてその道中で、えー、人買に、んー、だまされて、そして、親子別々に暮らさなければならないという悲運になるわけです。そして、その買われていった、厨子王と安寿が買われていった先というのが、大変な、もう、それこそ鬼のような人のところに買われて、そこで、もう、散々な、難儀苦労を致します。ね。そして、えー、もう立派な、あー、青年になります。そこでその、その島を逃げ出そうという、兄妹が相談いたしますけれども、その、兄妹二人では、とても、見つかるばかりだから、だから、とにかく、うー、兄さんの厨子王だけが逃げてくるのです。自分は、出来るだけ追っ手が、あー、暇取るようにするからというような事で、あの、兄さんだけを逃がします。そして、自分は、あれは何でしたかね、自殺を致しますね。入水自殺を致します。そすと、厨子王だけが、その都に行って、もう、その間にもう、大変難儀苦労致しますけれども、あー、いろんな親切な人達に、いー、ま、親切を受けて、そして、ま、行くわけです。そして、都の偉い方に会いまして、あー、お父さんの、おー、親友であると、あったと言う人に出会って、それから、一遍に、一躍、うー、どこどこの、いわゆる、自分が、あー、買われておったところの地区の、まー、長というですかね。そこを、あのする役人に取り立てられます。ね。そして、自分が一緒に、もうそれこそ、地獄の苦しみをしておった人達を助けたい一念で、ね。えー、これからは、人身売買ですね。人を売ったり、買ったりすることはできないと、言うようなあの、ふれを出しまして、みんなを救い助ける。そして、最後には、お母さんとも巡り合うといったような物語の筋ですよね。もう、それこそ、まあ、結構な身分でありますけれども、その結構な人が、あー、いうならば、その幸せの条件である一切と別れてしまう。しかも、そういう、地獄のような苦しみを受けなければならないというような事になる。けれども、結局は、あー、厨子王が助かって、沢山な人を助けるといったような事になってくるのです。私は、信心というものは、そんなに難しいものとは思われませんけれどもですね。私共が、どういう素晴らしいものと別れても、そんなら、財産なら財産と別れても、ね。どういう難儀に直面致しましてもです。そこのところを、やはり、辛抱しぬくという事。ね。そして、私は、その、人が助かることのための働きが出来るほどしになる。ま、信心というのはですね。ですから、どういう事のになるかというと、えー、信心が分かるという事は、ね。例えばその、厨子王であれするならば、親子を、あの、別れ別れにならなければならなかったり、大変な難儀の中に直面いたしたりしますけれども、そこのところを、信心では、神愛と教えるわけです。それが、なら、今、難儀をしておるけれども、それは、難儀の正体というものは、いわば、神愛だと分からせてもらう。そこで、それを神愛と、ね。分かって、いわば、それを頂く事の信心にならせて頂いておりますとです。途中に、次々と親切な人に会うようにです。ね。ほんとに神様のおかげなればこそ、神様のおかげなればこそと言ったようなね。ことを感じながら、その難儀と取り組んでくる。もう、そこでは、難儀とは言わずに修行というようになっておる。ね。しかもその修行が、こよない有り難いものになっておる。ね。この信心、この修行によって、神様が研いて下さるんだ、改まらせて下さるんだという事。ね。そして、教祖様のお言葉を借りると、「人が助かることさえ出来れば」というような尊い心が生まれてくるようになってくる。ね。そして、そういう、人が助かることさえ出来ればというような心の状態というものをです。頂かせて頂くまでが、信心の一つの過程だと思うのです。お徳を受けられた、いうならば、方たちの信心の歩みというものは、必ず、そこをもう、これは絶対、通っておられます。ね。ですから、お互い、現在、ふんまえておるところの難儀と感じておる、その難儀という問題がです。本当に、神愛と分かるという事が信心だという事が分かるでしょう。ね。そして、今度は、その分かったことを、今度、行じさせて頂いていくうちにです。なるほど、難儀ですけれども、難儀ななかにも有難涙がこぼれるほどしの、有難さを感じさせて頂きながら、ね。いよいよ、真実の御用が出来ますように。または、神願ご成就のことのためにの御用にでも使うて頂きますようにというような、尊い願いが出来るようになる。それも、口だけではない。芯から、底から、その事が願えれるようになる。そこに、信心のある意味での成就というのがあると思うです。それが、真心が分かって、真心を頂いた人の姿です。ね。そこから人が助かる。もう、狂いのない真心という事になるのです。信心しておって、どうしてこういう事が起こってくるだろうかというような思いが涌くならば、もうその信心は、ね。必ず狂います。そして、本当のことにはならんで、おしまいにならなきゃならん。ね。まあ、皆さん、例えば、信心させて頂いておればね。例えば、苦労なことになるという意味では、決してないのですよ。いわゆる、そこんところが、今日は、ね。信心するものは、何事にも真心になれよという事なんです。ね。信心するものは、何事にも真心になれよと。真心、そこには、真心が分からなければならない。次には、真心を頂かなければならない。真心という事を、ひらがなでしんじんと読ませて、字では漢字で真心(まごころ)と書いてある。ね。いわゆる、真心(まごころ)と信心が、いわば、一緒にです、足ろうていくという生き方を、今日は、私は、皆さんに聞いていただいたんです。ね。そこから、段々、おかげを頂きましてね。いわゆる、その真心を頂いていっておるうちにです。自分が困ったことだとか、嫌なことだとか、腹の立つことだと思うておったような事もです。ね。どう分かるかというと、それも神愛だとわかる。真心が分かるという事は、その事なんです。ね。また、それは神様が、私の求め給うところの修行であると分かるのです。ね。だから、苦労と思うのではない。修行と思うところから、新たな元気な心も沸くし、また、新たなおかげの心もわいてくるのです。有難いという心もわいてくるのです。ね。そこで、いよいよ、いわゆる、真心になって、真心を分かっていく。ね。そして、真心を頂いていく。行じていく。自分の心が、今までの自分とは、もう似ても似つかぬ心。ね。ただ、自分だけがよければといったようなものではなくてです。ね。人が助かることさえ出来ればというほどしの、いわゆる、働きです。自分の働きというものがです。自分の周囲のはたが楽になって行くことを、楽しみに信心が出来る。いわゆる、真実の御用が出来ますようにという事は、そういう事なんです。自分の働くという事が、先ず、子供が楽になる、主人が楽になる、家内が楽になる、兄妹が楽になる、ね。信心するものが、商売をさせて頂いておるならば、お客さんが喜ばれることのための、例えば、商売という事になってくるのです。ね。身体はつぶれるものでないから、一生懸命働かせて頂いて、それだけの、余分に奉仕をさして貰う、といったような事になってくる。それが、何事にも真心になれよというは、そういう事なんです。ただ、拝みよります。参りよります。毎日参りよりますというのでは、信心じゃない。ね。今日は、「信心する人は何事にも真心になれよ」と、その真心というのが真心(まごころ)と書いて、しんじんと読ませてある。だから、二つの意味があるということを、今日は聞いていただいた。ほんなら、二つの意味がある。二つの意味という事は、どういう事かと言うと、信心を分からせて貰うて、分ったことを行ずる。信心を頂いていくと。それを、本当に、自分頂いていく。頂くから、信心の血になり肉になり、信心のお育てを頂きますから、段々お育てを頂いて、今までは、とても、人の事なんか思いもしなかった私が、人のことが思えれるようになり、人が楽になる、はたが楽になることが楽しみになってくる。ね。そこから、いよいよ、心の目も開けてきて、ね。いわゆる、そこにはっきりとです。肉眼をおいて心眼を開かせて頂くことによって、なるほど、ね。難儀と思うておるその、実体が分かるようになる。それが、神愛であるということが分かるようになるから、有難いばっかりという事になるのですよ。
昨日、おー、昨日の朝でしたが、頂いておって、皆さんに聞いていただくのを忘れておったんですけれども、んー、上野先生がね、誰かに言っておられるんですよ。あの、「日本酒でいかんなら、焼酎にしなさい」ち。ね。例えば、あー、難儀を感ずる時には、ね。まあだ修行が足りんのだと、一段と信心の修行さしてもらうとです、ね。苦労を感じんようになる。いや、それでもまだ苦労を感じるなら、もういっちょ、苦労をさせて貰う、修行させて貰うと、それが有難いことになってくる。というような御理解を、昨日、聞いていただきましたね。例えば、この日本酒というかね。いわゆる、お酒のことを、有難き、勿体なき、恐れ多きと、みきとね。そのみきを日本酒で頂き、日本酒は、あれは度数で、十五、六度しかありません。そすと、焼酎は、今頃、おー、昔は、三十五度とか、四十度ばっかりでしたけれども、今は、もう、度数が低くなって、二十五度になってますよね。ま、二十五度と三十度ぐらいしかないです。ですから、例えばその、二十五度のものを飲みましても、日本酒よりは、十度は高いわけです。ね。少し飲んで早く酔うというわけなんです。だから、ね。日本酒を飲んで、まだ難儀を感じておるならばです。もちっと度数の高い、有難い、勿体無きをいただけよという事を、上野先生という事は、私は、天地の親神様だと私は思うのですよね。最高の愛というのですから。上野愛ですから。だから、天地の親神様は、そのように、私共に求めておられるのです。本当に、苦しい、苦しいと思うならです。もちっと有難くなる稽古をしろと。それには、もう一段修行してみよ。それでも有難くないなら、まいっちょして、修行してみよ。必ず、有難くなれれる。ね。その、有難いという心が、おかげを頂いていくことになる。おかげを生んで行く事になるのですから。ね。「信心する人には、何事にも真心になれよ。」もう、いと簡単に教えておられますから、私共は、簡単に、これを言うだけであってはです。それを行じていないことに驚きます。そして、ほんなら。行じて見るとまた、このように、いと簡単で楽しい、有り難いことはないのです。何事にも真心にならなければ、楽ではないです。ずるいことを思うたり、ね。いうならば、えー、こすい事を思うたり、しておるから苦しいのです。ね。信心になったが一番楽なんです。信心する人は何事にも真心になれよと。いわゆる、まごころになれよと。という事を今日は、聞いていただきましたですね。どうぞ。